被災した人たちへ、その時、私の出来た事
2011年3月11日、東北地方太平洋岸を中心に東日本大震災の発生
被災地宮城県岩沼市・名取市へ4月初旬鍼灸ボランティアに行きました。
震災の爪跡がそのまま残る岩沼市・名取市を訪れました。
仙台空港は名取市と岩沼市とに位置します。
沿岸沿いは津波により全て破壊されていました。
かつて、離着陸した仙台空港は海岸沿いにある為、壊滅状態でした。
操縦士として空・自然をエンジョイしていた頃、仙台空港に我が愛機で停泊した時は岩沼市のホテルに宿泊していました。
被災地へ鍼灸師としてボランティアで岩沼市を訪れることは、感無量でしたね。
岩沼市も名取市も、市の中心部はどちらかと言えば山沿いに位置し、津波の被害を受けませんでした。
ボランティア鍼灸として治療する方々は、避難する人達。
避難所は岩沼市民会館、避難する人達が数百名、床に毛布をひいて雑魚寝の生活、
精神的なストレスと生活環境から来る身体の変調、腰痛・肩こり・膝の痛み等々、
名取市消防署職員方々への鍼灸治療、
36時間勤務12時間休憩(消防署宿泊)の勤務形態が震災以来継続、
普段は体力自慢の隊員方々も肉体的・精神的疲労がピークに達していました。
名取市職員の方々への鍼灸治療
職員の人達の多くが被災者、
家が津波で破壊されたり、家族が帰らぬ人となっていても、災害以来、市役所に泊まり込み、市民へのサービスに全ての時間を費やしていました。
治療後、皆さんの顏色に血がかよいます。
疲れ切っていた顏色に本来の輝きが甦ります。
治療家冥利のひとときでした。
震災後早々の時期でしたから、食事も自炊のつもりで行きました。
町の中心部は被災を免れた為、通常に近い営業のレストランもありました。
全国からボランティアで訪れた鍼灸師仲間数人と食堂に入り夕食。
そこのママさんやマスターにボランティアで来ていると話したら、夜のささやかな宴、1人500円で良いって!
被災を免れた人達が、ボランティアに訪れる人達へ出来ること。
なんか、胸が詰まる思いでした。そして、あったかでした。
自衛隊の方々は、本当に活躍しました。
私は車での寝泊まり。
朝早く散歩がてら近隣を歩き回ると、ボランティアの人達のテント村がありました。
水道のある水場で、朝早くから洗濯をしていた人がおり、話しました。
「定年退職後、お遍路としてゆっくり四国を車で回ろうと準備していましたが、この震災で、準備した行き先を岩沼に変更しました。
被災地の片付けは肉体労働で、慣れない身体には結構響きます。」
ボランティアとし全国から来られる鍼灸師の方々も素晴らしい。
我が国の人達、
その素晴らしさに、たくさん、たくさん出会う事が出来ました。
5月は茨城県取手市に避難する人達にウィークエンドの鍼灸ボランティアしました。
南相馬市で被災した人達が避難する施設として、取手市から競輪場の選手宿舎が提供されたました。
それぞれが家族単位に個室で、毎日お風呂にはいることが出来、食事も栄養師・調理師の方が専属でした。
私達に取とり当然の日常ですが、この時期被災者の方々が、避難する施設で毎日風呂に入れる環境は希有なことでした。
南相馬市市民病院の看護師さんが3名滞在し、避難する人達の健康管理されておりました。
そのため、鍼灸治療を必要としている人に効果的に施術できました。
杖をついて足を引きずり治療に訪れた人が、治療後、足も軽そうに自ら歩いて帰れる姿を見ることは喜ばしいことでした。
避難する方々にとっては恵まれた環境と感じました。
治療中で感じたこと、
「家族を含め、友人の多くが津波の犠牲に」
「家はそのままなのに、放射能で帰ることも出来ない」
私には、現実を共有できかねる状況でした。
治療で、多少でも身体に安らぎを・・・と言う思いでした。
ここでも、治療活動を共有できた鍼灸師の方々に心から感謝です。
6月初旬、宮城県気仙沼市へ鍼灸ボランティアとして行きました。
気仙沼市も津波そのものが残っていました。
ここは私が若き時、季節的にはちょうどこの時期又はも少し後の時期、ヘリコプターの水田散布で毎年訪れました。
平地に広い水田はなく、細長い沢からなる水田が続き、農薬散布する操縦士がその技量を鍛えられる地区の一つだったことを思い出します。
港に近づくと魚の腐敗臭が港を覆っていました。
避難所は、気仙沼小学校・中学校・市民会館
90歳を超えたおばあちゃんを二回目の治療に訪れた時、その第一声は、
「昨日は座って朝のラジオ体操したけど、今日はラジオ体操、立ってできたよ。」
大変な環境の中で、高齢な方の元気さはその場の人達を力づけるようでした。
治療家にとって、最高の報酬ですね。
やっぱり、沢山のことを頂きました。
6月は週1、赤坂プリンスホテルに避難する人達への鍼灸ボランティアさせて頂きました。
赤坂プリンスホテルが全館、数百名の人達の避難所として利用されていました。
都心でも有数のホテルとの印象を私はありましたが、数年前米国からの友人が宿泊した時、一緒に食事したホテルですが、別の建物のように感じました。
鍼灸師の団体が主催してのボランティアですので、全国からボランティア鍼灸師の方々が、毎日十名前後、
都心と言うこともあってか、初めてのボランティア団体活動。
都会的なと感じられたボランティア治療でした。
患者さんの多くは、身内や家族に犠牲者を持つ方々でした。
8月初旬、南三陸町と陸前高田市に鍼灸のボランティアとして行ってきました
予定は松島町でのボランティアとして現地入りしましたが、窓口となったボランティアを受け入れる組織と情報交換の行き違いがあり、南三陸町と陸前高田市へ活動場所を急遽変更となりました。
被災地へ行った唯一の目的は、1人でも多くの方々へ施術する事、
現地の状況視察等の治療以外に費やす時間がもったいない。
その思いが受け入れられなかった事は心残りでした。
南三陸・陸前高田、二つの町とも、その全てが消えていました。
絶句、
コンクリートで出来た鉄道の鉄橋さえが、津波で破壊されていました。
絶句、
被災後の処理が市内の大部分で進み、破壊された建造物の名残や津波で流された車両が数カ所に集積されていました。
どうして、こんなに、車がぼこぼこなの??
まるで、山から崖を転げ落ちたような車両が数百台、
絶句、
今回のボランティアも車中泊。
お風呂は避難所であるホテルを利用させていただきました。
食事もホテルの厚意を受けました。
陸前高田では、鍼灸師私1人での活動でした。
”復興の湯”駐車場車中泊。
ここでも、お風呂と食事のお世話になりました。
本部長には大変お世話になりました。
朝、要件があって、陸前高田市のボランティアセンターに行った時、
首都圏や関西ナンバーの大型バスで、その駐車場は埋め尽くされていました。
夜行日帰りや、一泊二日でのボランティアツアーできた若者達がごった返しておりました。
すごいことです。
いまどきの若者、すごいですね!!
日本の将来は心配ないですね。
やっぱり、たくさんの思い、パワーを頂きました。
そして、
今回、被災された方々へ鍼灸師とし、いくつかの機会を通じ、ほんの少しですが貢献できた事を心から感謝します。
〔南三陸町や陸前高田での写真を納めたカメラを紛失、写真挿入できなかった事が心残りです。〕